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選手としても監督としても、病を得てからはリハビリに取り組む姿にも、国民はこの人に“希望”を見続けてきました。「ミスター・ジャイアンツ」「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんが3日朝、肺炎のため亡くなりました。89歳でした。
■盟友が追悼「特別な存在」
最初に弔問に訪れたのは、60年来の友人でもある王貞治さん(85)でした。共に一時代を築いた長嶋さんに、どんな言葉をかけたのでしょうか。会見でその想いを語りました。
王貞治さん
「今朝連絡をもらいまして『えっ?』というのが本当の最初の思いでした。2004年に病を得てから闘ってきた長嶋さんの姿を見ているので。とにかく前向きな取り組みをしていて、苦しいリハビリを率先してやっていましたし。色々なことがあったんですけど、全てを乗り越えるという姿勢を持っていました。野球をやっていた時もそうでしたけど、絶対退くということのない人生だったと思うんですね」長嶋さんの1年後に入団した王さん。ジャイアンツの門をくぐった時から、その背中は常に大きかったといいます。
王貞治さん
「1年目入った時に、長嶋さんが前の年にホームラン王と打点王をとって。入った時から長嶋さんは特別な存在でした。私も長嶋さんがいてやっとホームランが打てるようになって。少しずつ長嶋さんと比較されるようになって。とにかくバットで存在感を示すしかありませんでしたから。ホームランをとにかく追っかけて、だんだん長嶋さんと近付いてるなと、自分なりにね。もっと近づきたいというか」思い出をかみ締めたうえで、その偉大さをこう称えました。
王貞治さん
「長嶋さんの存在があったからこそ、昭和33年からずっと。(プロ野球は)野球の好きな人たちだけの世界だった。野球に関心がなかった人たちにも『どうだったかな。長嶋打ったかな』そういう時代に入って。我々も含めて大きな輪になった。他の人にはできなかったと思う。こうなってみて存在の大きさを改めて、思っていたんですけど、それ以上に新たに思い知らされた」■“教え子たち”も惜別の思い
監督になってからも、長嶋さんの人柄や圧倒的な熱量に魅入られた選手たちは数知れません。その思いが日本の野球界を次の世代につなげてきました。
長嶋監督“1年目”に入団 元読売巨人軍 中畑清さん(71)
「人生だったから、俺のなかで。ずっと背中を追っかけていきたいというのが俺の目標なので常に。死ぬまで。俺の方が先に死にたかったくらいです。悔しいです」“長嶋監督のもと2度のリーグ優勝”張本勲さん(84)
「自分の体の一部を取られたような思い。本当に残念でならない。この世界は癖の強い人も多いが、長嶋さんは本当に純粋な野球人だった」読売巨人軍 原辰徳前監督(66)
「選手、コーチ、監督という立場でも深く影響を受け、一緒にいられたのは私の中でも大きな燦然(さんぜん)と輝くことであります。現実としてしっかりと受け止めて、いい形でお送りしたい」■野球を愛し愛された89年の生涯
長嶋さんの第一次監督時代の1978年に巨人に入団し、新人王を獲得。伝説となった79年の“地獄の伊東キャンプ”にも参加した角盈男さん。そしてアテネ五輪アジア予選で共に戦った松坂大輔さんに話を聞きます。
(Q.長嶋監督が亡くなりました。今の思いを聞かせてください)
角盈男さん
「穴がぽっかり空いております。朝、ニュースでぽんと入ってきた時に、まずは信じられない気持ちが一番でしたね。そんなに悪い情報は僕の所に入っていなかったので、突然ポンと来て嘘やろというのが正直な気持ちですね。(Q.それぐらい大きな存在でしたか)
角盈男さん
「そうですね」(Q.松坂さんはどうでしたか)
松坂大輔さん
「僕もニュースで目にして、やっぱりなかなか受け入れられなかったですね。すっと入ってこなかったですね。見なかったことにしよう、聞かなかったことにしようって思いたくなりました」長嶋さんは1958年に巨人軍に入団して、1年目にホームラン・打点の2冠。17年間の選手生活のなかで首位打者6回、ホームラン王2回、打点王5回、MVPを5回取っています。そして1965~1973年まで伝説のV9を達成をしています。
そして、引退の翌年から巨人の監督になりました。第1次監督時代は1976年、1977年とセリーグの優勝を果たしましたが、その翌年が5位と低迷したことを受けて、79年秋に若手選手にハードな練習を課した“地獄の伊東キャンプ”が語り継がれています。1993年からの第2次監督時代には2度の日本一にも輝いています。
(Q.プレイヤーとしての長嶋選手はどう映りましたか)
角盈男さん
「憧れというか、雲の上の存在ですよね。僕は小学校から野球を始めたんですけど、“ON”ですから1と3の取り合いですよね。本当に憧れだから。今の子どもたちが大谷選手を見ている感じでしょうね。僕も多分そういう気持ちでした」(Q.例えばユニフォームの着こなし一つとっても、その指先までお客さんが見ているという意識は、子どもながらに見て分かりましたよね)
角盈男さん
「監督、上のボタンを外すんですよ。一つだけ外している。そういうのがあるので、よく真似るんですよ」(Q.記録にも記憶に残る選手と言われました)
角盈男さん
「すごいのは、ここで打ってほしいという時に長嶋選手は打たれるじゃないですか。あれは最高の憧れですよね」(Q.長嶋さんの1回目の監督時代に、角さんは入団されました。チーム長嶋の下で活躍し始めた頃はどうでしたか)
角盈男さん
「一番最初だったのが、キャンプに行く前に多摩川のクラブハウスに呼ばれたんです。その時、初めて長嶋さんに会ったんですよ。それなぜかというと、背番号僕11で契約したんですよ。ところが今のDeNA、大洋からシピンという選手が入ってきて、それが11番付けてたので、監督に11番をシピンにやってくれって。それで呼ばれたんですよ。それで45しかないと。背番号は自分で作るんだぞと言われて。初めて見ましたから、もうずーっと見て、はいはいはいって。あれだけ憧れた、雲の上の人が目の前にいるわけですから」(Q.79年“地獄の伊東キャンプ”の時、角さんも強化の対象でしたよね)
角盈男さん
「あの伊藤キャンプはV9選手がいなくなったんですよね。監督はレギュラーポジションというものは与えられるものじゃなく、奪い取るものなんだっていう、それからスタートなんですよ。目的は1番バッター、4番バッター、抑えとかっていう話は後で聞きましたけどね。ちょうど後楽園が人工芝になると。下が硬くなるから、たたきつけて、それで高く上がって捕って1塁に投げる間に走り抜けると。一番は松本さんですから、右投げ右打ちの人が鈴木だったんですよ。4番は中畑さん。中田と日米野球がグッと上がってこられたので。そして抑えがたまたま僕になったという感じですけどね」(Q.どこが“地獄のキャンプ”でしたか)
角盈男さん
「一番よく分かると思うんですけど、午前中投げるだけ、午後走るだけ、メニューたったそれだけ。午前中投げるだけって2時間とか3時間あるわけだから。それをとにかく。今は100球とか制限がありますけど、僕は毎日300~400やってましたね。でも故障者0ですよ。ピッチャーも野手も一切なかったです」(Q.松坂さん、今の話を聞いてどうですか)
松坂大輔さん
「江川さんからもちょっと内容を聞いたりしたんですけど、けが人がいないっていうのは初めて聞いたので。できるものなんですね」角盈男さん
「けがしたら東京帰れと。次の年の2月のキャンプまでに治してこいという発想でしたけど、誰一人いなかったです」(Q.明るくて天真爛漫なイメージのある長嶋さんですけが、その時のキャンプの長嶋監督というのは、ある種の厳しさ、鬼みたいなところもありましたか)
角盈男さん
「明るく選手を乗せるというか。中畑さんとノックをやっていると、平気で『長嶋のバカヤロー』って言うし、監督は『おーいいじゃないか清。もっといらっしゃい』みたいにノックやってるし。そんな感じでしたね。内容はキツイけど、乗せるのがうまいので、ピッチャーの練習には監督は邪魔でしたね。馬場の平を何周もしなきゃいけないんですよ。1周した後ぐらいに監督がフッと入ってきて、100メートルぐらい全力で走る。負けるわけにいかないので、ついていくんですよ。そしたら『頑張って』ってすっと逃げられる。俺はその後どうすんねんって話で。ペースを乱すだけ乱して。当時、監督も若かったからご一緒にという感じで」(Q.長嶋さんは偉大なプレーヤーであると同時に、天然というかお茶目なところがありますね)
角盈男さん
「やっぱり選手を乗せるのはものすごくうまい監督ですね。やっぱり明るいですから」(Q.松坂さんは高校野球で日本を盛り上げてましたが、ちょうどその時に長嶋監督のジャイアンツは『メイクドラマ』『メイクミラクル』で日本中を盛り上げていました。どう映っていましたか)
松坂大輔さん
「もちろん見てました。僕は現役の時をリアルタイムで見れることはなく、監督としての長嶋さんのイメージが強いですけど、僕の印象はとにかく野球が好きなんだなっていうのと、監督になってもこんなに楽しそうにしている人って他にいないなと思って。楽しそうにグラウンドにいる姿っていうのがすごく印象に残ってますね」角盈男さん
「選手の時もそうだもんね。ホームラン打って、あの時代にスキップして帰るという。あの時代にはあり得ない話。それを皆が称賛する。皆が一緒にスキップするのですごいなと」(Q.角さんは、長嶋さんの2回目の監督時代にピッチングコーチとして共に戦われました。2期目となった長嶋さんは、角さんが選手として鍛えられた長嶋さんと違った面もありましたか)
角盈男さん
「僕らには優しかったですね。堀内ヘッドが来られて、負けてミーティングしてると、監督が監督室から来て、『どうしたんだお前たち。暗いじゃないか』って言って、バスタオル巻いて風呂に行かれるんですよ。負けてるから暗いじゃないですか。『明日、明日、明日行きますよ』そんな感じでスッと行かれますね」(Q.誰も嫌いになれない人ですね)
角盈男さん
「特に落ち込んでる時に選手とかコーチを盛り上げるのがすごい上手かったというか、そういう人でした。優しい人でしたね」■“長嶋JAPAN”五輪への思い
(Q.松坂さんは日本代表監督である長嶋監督のもとで、アテネ五輪のアジア予選、2003年に戦いました。長嶋監督をどう見ていましたか)
松坂大輔さん
「1対1で話したことはあまりなかったと思うんですけど、選手がいかに自分の能力を発揮できるか、そういう状況を作ろうと努力する姿。そのイメージがすごく強いですね。それは多分、普段のジャイアンツで監督されていた時も、日本代表の監督された時も変わらなかったのかなと思います。
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